2019年03月20日公開
2019年03月20日更新
内田裕也死す!生涯ロックンローラーらしい縁で被災地・宮城県石巻市と繋がっていた!
内田裕也の訃報に接し、彼が震災直後の石巻市を支援のために訪れていた事がツイッターで話題になりました。"何かしらの縁を感じる"と語った内田と石巻市の繋がりとは...

故・内田裕也が「石巻市」に縁を感じたわけ
内田裕也さんが79歳で肺炎のために亡くなりました。去年奥様の樹木希林さんを亡くしたばかりなのに、後を追うように逝ってしまった裕也さん...
【歌手の内田裕也さん死去 79歳】https://t.co/rxiudVJmDO
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) March 17, 2019
ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也さんが17日、東京都内で死去した。79歳。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。
しかし時は折しも3月、8年前に東日本大震災が起こった月でもあります。裕也さんは2011年3月27日にいち早く宮城県石巻市を支援のために訪れていました。
"最も被害の酷かった石巻市に行くべきだと思った"と語った裕也さん。"石巻市とは何かしらの縁を感じる"とも...
内田にとって初めての被災地入り。石巻を選んだのは「死者や行方不明者など最も被害が大きいところ。真っ先にここに来るべきだと思った」という。
また「石巻は、英語で言えばロックンロール。何か縁を感じた」。津波の爪あとを目の当たりにして「ただあぜんとした。とても信じられない光景だった」と話した。
それは「石巻」=ロックンロールだから...いかにも裕也さんらしいですね。ロックにちなんでバナナ690本、みかん690個を地元の被災された方々に配りました。
内田裕也さんが「石巻は英語で言えばロックンロール、何かの縁を感じる」と、バナナ690本とミカン690個を被災地に届けた宮城県石巻市においでよ
— おいでよ宮城 (@oimyg) March 17, 2019
いち早く被災地支援に乗り出した内田裕也
2011年3月27日JR徳島駅前で義援金を募る内田裕也
石巻市で内田裕也さんは被災者を元気づけるために、ハンドマイク片手に即興ライブを披露。ジョン・レノンンの「パワートゥーザ・ピープル」を歌ったのです。
裕也さんは義援金を募るために街頭に立って呼びかけたり、「内田裕也HELP! 基金」も立ち上げました。また石巻市での支援活動の印象を次のように話しました。
内田は「今まで何千回もステージをやってきたが、一生忘れられないステージになった。東北の人はパワーを持っている。必ず再興できる」と力を込め、最後は「頑張れ石巻!
ロックンロール」と締めくくった。
行動派の内田裕也らしい熱い一面ですね。彼はその後、毎年記念式典に顔を出していたそうです。
あの状況で、フルーツなんか出されたら、被災者はテンション上がったと思うわ。
— ナナのママン (@V6bmblji8AW9wFr) March 18, 2019
ただの破天荒なじいさんかと思えばそんなこともしてたんだな・・・
— 鮫肌実 (@BGhgkWRmgrRMR2U) March 18, 2019
知らなかった・・・ https://t.co/AlbUpPS8XO
ストーンロールでは…?というツッコミはなしで。
— 有栖竜翔@ALiCE (@ryuto_alice) March 18, 2019
細かいことを気にしないのもロックンロールです。 https://t.co/m7MLJrinWo
石巻でライヴされたとき「元気をもらいました」と伝えたら「嬉しいこと言ってくれるねぇ!」とニヒルに笑ったあの顔が、今も心に残っている。素敵なロックンローラー。 https://t.co/Bnk3esSQGd
— もっこす (@kinakolatte) March 18, 2019
内田裕也の「ロックンロール・バカ一代」
今の若い人には内田裕也といえば、”死神博士"のような『長ーい白髪とサングラス』がトレードマークの強面じいさんくらいの認識しかないかもしれません
しかし若いころはシャープな顔立ちの二枚目だったのです。裕也さんの経歴をごくごく簡単にまとめてみました。
ダンディだった若いころ♪
内田裕也プロフィール
内田 裕也(うちだ ゆうや、1939年11月17日 - 2019年3月17日)は日本のミュージシャン、俳優。本名は内田 雄也(読み同じ)。身長174センチメートル。血液型はB型。
兵庫県西宮市に生まれ、1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。
以降、内田裕也とザ・フラワーズのヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活動し映画出演や映画監督なども手掛ける。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。口癖は「ロケンロール」(Rock'n Roll)。
■内田裕也の知られざる1面です...
・元々は結構なボンボン育ち ロカビリー歌手としてデビュー。
・映画若大将シリーズにもちょい役で出演。
・ビートルズ来日の際には日本武道館の舞台袖で見ている姿が写真に撮られている。
・フラワートラベリングバンド結成 あくまでロックは英語で歌うということにこだわった。
・「ハッピーエンド」系とは対極的な立場として、日本のロックを定着させる力となった。
第二期フラワー・トラベリング・バンド
ヴォーカルのジョー山中をメインとしサイケデリックなハードロックを目指していた。
内田裕也は徐々にフラワーのプロデュースに徹するようになった。
裕也さんは映画にも数多く出演しました。中でも主演の「10階のモスキート」評判が良かったです。
映画『10階のモスキート』から
何か危ない雰囲気が漂っていました。
鮎川誠(シーナ&ロケッツ)やジョー山中、若き日の沢田研二なども祐也さんとは深い交流で結ばれていました。
■沢田研二が愛着を込めて内田裕也のことを歌った「湯屋さん」
日本ロック界の重鎮だった
内田裕也といえば「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」を毎年年越しで開催して日本のロックシーンを盛り上げていたことが上げられます。
JPOP路線が主流になり、いつしか古き良き時代の野性味あふれるロックが隅に追いやられている風潮ですが、内田裕也はめげずに「ロッケンロール」と掛け声で盛り上げてきました。
何しろ去年で42回も続いたのですから、裕也さんの裏方としての実力もさることながら、老若男女ミュージシャンが裕也さんを日本ロック界の重鎮と認めているからに他なりません。
遺作となったドキュメント映画『転がる魂・内田裕也』の舞台あいさつに、映画監督の崔洋一さんとともに現れた内田裕也。
内田裕也が亡くなったそうだ。やっぱ希林さんいないと張り合いがなかったんだろう。天国でのんびりしてる希林さんは「まだ早いわよ」って苦笑いしてそうだ。
— T1C (@Hipsta_gram) March 17, 2019
しかしこの家族写真、ひたすらカッコいいよなぁ。全員が主役で、全員が脇役。ロックンロール。 pic.twitter.com/fXkWMmTsXQ
ロックンロールの生き証人がまた亡くなってしまいました...
ネットの反応
・よく考えたら、ストーンロール・・・いやいや、なんでもないです。。。 ロケンロール!
・大麻、暴力、ストーカー、決して美談ではない、日本の音楽業界のイメージを悪くした人でもある。 ばいばい
・やっぱり樹木希林の後を追って逝ってしまったね。RIP
・ニューイヤーロックフェス長年続けたのは立派!裏方的能力には秀でていた人だったと思う。
毀誉褒貶の激しかった人ですが、音楽的生き方はとても面白いものがあったとおもいます。ご冥福を祈ります。